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 【生涯学習】

《公開講座記録》【「大和学」への招待 ─王寺の歴史と文化─】第1回 筒井順慶と明智光秀

第1回
●2020年9月20日(日) 午後1:30
●テーマ: 筒井順慶と明智光秀
●講師  天野 忠幸 歴史文化学科 准教授

内容

筒井順慶は戦国時代の大和武士の中で最も有名な人物であり、織田信長に味方し大和一国の支配者となった。その一方、順慶をめぐっては、事実ではない逸話が江戸時代以来流布している。一つは「元の木阿弥」である。父の順昭が死去した後、奈良の盲目の僧侶を順昭の影武者にしたという。もう一つは、「洞ヶ峠」で、羽柴秀吉と明智光秀が山崎で戦った際、順慶は洞ヶ峠に陣取り、勝つ方に味方しようと傍観していたとされ、日和見な態度を指す際に使用される。このような逸話が生まれた背景を知ると共に、順慶の大和国主ととしての実像を確認していく
 
筒井氏の基本姿勢として、室町時代より、南朝・後南朝勢力と結ぶ越智氏に対抗するため、室町幕府や河内の畠山管領家と連携してきた。そのため、歴代筒井氏は河内守護代遊佐氏と婚姻を重ねている。そして、筒井順昭は遊佐氏の力を背景に、吉野を除く大和の統一に成功した。しかし、順慶が二歳の時、天然痘により死去してしまう。急拡大の反動で筒井氏は存亡の危機を迎えるが、実際は影武者を立てるのではなく、当時京都を制圧した三好長慶らとの友好関係を強化することで乗り切っていく。
 
ただ、家臣団が興福寺連携派と河内連携派に分裂してしまい、収拾できなくなった順慶は、遊佐氏に代わって台頭する安見宗房を頼って出奔した。順慶は宗房の後ろ盾を得て復帰したものの、今度は長慶と宗房の対立に巻き込まれてしまい、長慶家臣の松永久秀に筒井城を奪われ、多くの家臣たちからも見放されてしまう。特に興福寺は、順慶が順昭から継承した官符衆徒棟梁の地位を剥奪し、久秀に認めたため、久秀は永遠の宿敵となった。
 
順慶と久秀の戦いはその後十年以上も続くが、順慶は三好三人衆や足利義昭、織田信長と巧みに結んで生き残りを図る。信長も順慶を見込んで姻戚関係を結ぶ。信長はまず「大和守護」として、尾張衆の塙直政を派遣した。しかし、これは室町時代、大和は守護不設置の国で、その支配は興福寺に任されていたことから、大きな反発を招くことになった。直政が本願寺との戦いで討死すると、信長は尾張衆の登用を断念し、興福寺の官符衆徒棟梁である順慶に大和の支配を任せた。
 
ただ、信長が順慶に与えた権限の具体的な内容は、軍事指揮権だけであった。大和武士はあくまでも信長の直臣で、信長の命令によって順慶に服するのであって、順慶が大和武士を自分の家臣団に組み込んだ訳ではなかったのである。順慶は信長より全国統一戦争を遂行する軍事体制を確立するため、大和のすべての城郭の破壊と、寺社や武士に対する指出検地を命じられる。相当な反発が予想される、この改革を明智光秀の後見を受けながら成し遂げた。そして、順慶は光秀の軍事指揮権下で、その後見と監視を受けながら、大和を率いていく。
 
そうした中で、本能寺の変を迎える。信長という圧力を失うと、大和武士の中からは光秀に味方する者も現れた。烏合の衆と化し、光秀らの草刈り場となりつつあった大和武士を、順慶は郡山城に集め「血判起請」を取り交わし、一致して羽柴秀吉に味方するようまとめあげることに成功する。洞ヶ峠に陣取ったのは、そうした順慶たちに圧力をかけようとした光秀であった。
 
そして、順慶は中央政権と結ぶという歴代筒井氏の方針に従い、信長や光秀に代わる後見人として秀吉を選択していく。

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