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 【生涯学習】

《公開講座記録》【「大和学」への招待 ─王寺の歴史と文化─】第2回 斑鳩・片岡の飛鳥時代寺院と大和川

第2回
●2020年9月27日(日) 午後1:30
●テーマ: 斑鳩・片岡の飛鳥時代寺院と大和川
●講師  岡島 永昌 王寺町 学芸員

内容

大和川をつうじて大和の玄関口となる斑鳩・片岡の地域には、法隆寺をはじめ、中宮寺、法起寺、法輪寺、平隆寺、西安寺、片岡王寺、尼寺北廃寺、尼寺南廃寺、長林寺と飛鳥時代に建立された寺院が多く所在します。聖徳太子が斑鳩に宮を構え、斑鳩寺(法隆寺若草伽藍)を建立したのは、そこが大和川をつうじた交通・流通の拠点であったからであるという考えがありますが、斑鳩の対岸に当たる片岡の地域に対する聖徳太子の関わりはどのようなものだったのでしょうか。

まず、従来の研究でも指摘されているように、聖徳太子には片岡で飢者と出会う説話があったり、推古天皇から与えられた播磨国の地を法隆寺・中宮寺・片岡僧寺の3寺に分納したりする記事(「法隆寺伽藍縁起并流記資財帳」)があって、片岡とも関係していたことがうかがえます。さらに、大和川南岸にあった寺院のひとつである西安寺跡において、2014年度から王寺町が継続して発掘調査を進めたところ、現在の舟戸神社の境内地を中心に、南から北にかけて塔・金堂の基壇跡が良好に残る状況を確認することができました。しかも、塔跡は、法隆寺西院伽藍の五重塔と同じくらいの規模をもつ立派なもので、西安寺は南を正面とする四天王寺式伽藍配置でもって建立されていたことが明かになってきました。

その一方で、西安寺については、仁安3年(1168)「大原吉宗田地売券」(『平安遺文』)や竈神が祀られる久度神社から、渡来系氏族である大原史氏によって創建されたとする説が有力で、聖徳太子の関わりは太子創建とされる46か寺のひとつに数えられるに過ぎませんでした。しかし、王寺町が進めてきた発掘調査によって、西安寺跡から法隆寺若草伽藍出土瓦と同笵の飛鳥時代前期(6B)及び飛鳥時代中期(7Ab)の軒丸瓦が出土し、西安寺の創建に聖徳太子自身や上宮王家が関係していたことを想定できるようになってきました。

ただし、ここで重要なのは、発掘調査で確認された西安寺塔の建立年代が、出土する瓦から7世紀後半から8世紀初頭頃と考えられることです。つまり、西安寺は聖徳太子や子の山背大兄王の頃にいったん創建されたと想定できたとしても、塔が建立されて伽藍が整ってくるのは、皇極3年(643)に上宮王家が滅亡して以後ということになります。

同様に、聖徳太子が建立した法隆寺若草伽藍は天智9年(670)に焼失したのち、7世紀末から8世紀初め頃に今の法隆寺西院伽藍が再建されましたし、『聖徳太子伝私記』に記録された法起寺塔露盤銘によれば、法起寺は7世紀半ばから8世紀初頭にかけて造営されました。では、誰が、なぜ大和川沿岸で7世紀後半以降も寺院の造営を続けたのでしょうか。その解明の糸口になるのが、西安寺跡から出土する忍冬蓮華文軒丸瓦と呼ばれる瓦です。

この忍冬蓮華文軒丸瓦は、蓮華文と忍冬文を交互に配置した文様で、西安寺特有のものです。そして、西安寺跡から出土する忍冬蓮華文と同笵の軒丸瓦が、神奈川県横須賀市の宗元寺跡から出土しています。森郁夫氏によれば、宗元寺のある相模国は天武天皇の子や孫の食封が多くあるところで、両寺を同笵瓦で結びつけたのは天武天皇ではないかと推測されています。

天武天皇といえば、天武4年(675)以来、頻繁に竜田と広瀬の神を祀るようになり、同8年(679)には竜田山と大坂山に関を置きました。竜田・広瀬ともに位置するのは大和川をつうじた交通の要地です。大和川沿岸の寺院が7世紀後半以降にも大規模に造営される背景には、国家による大和川交通の掌握があったのではないかと想定することができそうです。西安寺は今のところ、南向きの四天王寺式伽藍配置であったと考えていますが、南側は丘陵が張り出していて狭く、代わりに北側が広く、かつ丁寧に整地されている状況が発掘調査で確認できました。つまり、西安寺は、大和川のある北側に門戸が開かれていた可能性があり、やはり斑鳩・片岡の飛鳥時代寺院は大和川の交通と深く関わっていたようです。

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