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 【リレーエッセイ 感染症と人類3】

応仁の乱と疫病の流行

天野忠幸 准教授(文学部歴史文化学科歴史学研究コース:日本中世史)

室町時代後期に起こった応仁の乱は、後土御門天皇や将軍足利義政を擁する細川勝元や畠山政長ら東軍と、山名宗全や畠山義就を主力とする西軍が、京都など近畿地方を中心に争い、応仁元年(1467)から10年近くも続きました。その結果、幕府は往時の力を失い、戦国時代が始まったとされます。
その最中である文明3年(1471)7月から閏8月頃にかけて、京都や奈良で疱瘡などの疫病が大流行し、地方にまで拡大していきました。7月に後土御門天皇が「赤疹」に、8月には足利義政の息子の義尚6歳も疫病にかかります。奈良でも、興福寺大乗院の門跡で、興福寺・長谷寺・薬師寺の別当を務めた尋尊が倒れました。

朝廷では後土御門天皇の快復を願い、祈祷が行われました。義政と日野富子の夫婦は喧嘩をして、義政は細川邸、富子は北小路殿とそれぞれ別居していましたが、義尚の住む室町御所に駆け付けています。ただ、二人とも義尚より感染してしまいました。

尋尊は8月10日の夕方に発病し、11日には最近流行の「波志賀(はしか)」であろうかと心配し、12日に床に臥せると重篤化したようで、21日まで日記を書くことができませんでした。奈良では600人もの人々が亡くなったそうです。

人々はこうした疫病に、どう立ち向かったのでしょうか。後土御門天皇は「赤腹」の収束を願い、興福寺以下の七大寺に祈祷を命じました。尋尊のライバルの経覚も、疫病除けのお札をつくったり、薬師如来の図絵を掛けて法会を行ったりしています。基本的には、神仏のご加護にすがるしかなかったようです。

そうした中、清原宗賢は京都の庶民の動きを書き留めていました。閏8月7日、人々は「送赤疹(おくりはしか)」と号して、風流・囃子物・作り物などを催したのです。金襴などで飾り立て、山伏の装束や花傘、甲冑を身にまとい、笛や太鼓を鳴らして、路頭で踊りまくりました。それを諸大名がこぞって見物しています。庶民も屋根の上に構えた桟敷や、屋内から簾越しに見物しました。その様子は、祇園会のようだったといいます。こうした「疫神送り」の神事は、三条や四条を出発し、室町御所の門前を経て、御霊社へ向けて行われました。
御霊社は、平安京をつくった桓武天皇が、各地で疫病が流行しているのは早良親王の祟りであると考え、その御霊を鎮めるために祀ったのが始まりとされます。人々は御霊社の神威にすがりたかったのでしょう。現代的な視点からすると、集まって騒ぐのは、逆に感染拡大を招いているのではないかと思うのですが、当時の人々は必死だったのでしょう。
また、人々を苦しめている応仁の乱が、畠山義就と畠山政長が戦った御霊社で始まったことを踏まえると、東西両軍に対する怒りや抗議が込められているようにも思えます。室町御所の前を乱舞する人々を、義政・富子夫妻はどんな思いで見ていたのでしょうか。 

こうした疫病が大流行した背景には、旱魃による食料の不足や、軍勢が各地から上洛したことによる人間の大規模な移動、そして、餓死者と戦死者による公衆衛生の悪化などが考えられます。身分の貴賤を問わず、拡大した疫病によって、さすがに東西両軍にも厭戦気分が広がったのか、翌年正月に、勝元と宗全が主導して和睦をまとめようとしました。しかし、これは失敗に終わりました。

さて、振り返って、現在はどうでしょうか。様々な分断や対立を乗り越えて、疫病や戦争に対処できているでしょうか。いたずらに問題を先送りにしていませんか。厳しく問い直していかねばなりません。

参考文献
呉座勇一『応仁の乱』(中央公論新社、2016年)
大薮海『応仁・文明の乱と明応の政変』(吉川弘文館、2021年)

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