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 【リレーエッセイ 感染症と人類2】

幕末日本のコレラ

幡鎌一弘 教授(文学部歴史文化学科歴史学研究コース:日本史、日本宗教史)

安政5年(1858)5月、長崎に到着したアメリカ船乗組員から広がったコレラは、8月上旬には日本全国に広がり、各地で多数の死者が出ました。人口の多かった江戸では、武家・町人あわせて4万人以上が亡くなったといわれています。人々は海の外から襲ってきたコレラに、どのように向き合ったのでしょうか。狭い地域の話ですが、宮津藩と宮津城下(京都府宮津市)の人々の動きを紹介してみましょう。

宮津城下町でコレラが発生したのが8月11日。翌日にはすでに死者が出ています。患者は激しい嘔吐を起こして意識が薄くなり、急速に衰弱していきました。なかには奇声を発する者もおり、人々はこれを見て憑き物(つきもの)のせいだと思いました。最終的に、城下で医者にかかった人が30人、内14人が死亡しました。宮津城下での被害は小さく、コレラを患ったのは町人・漁師ばかりで、武士で罹患した人はいませんでした。広い屋敷地を持ち、出入りする人が限られる武士と、狭い家で暮らし、しばしば共同作業をする民衆とでは感染リスクは全く違います。今も昔も、感染症にかかるかどうかは、まずは生活環境が決定的な意味を持っていました。

8月26日、豊岡(兵庫県豊岡市)で10日の間に150人が死去したという話が宮津に伝わります。その直後、宮津城下の人々のとった対応は、一にも二にも神仏への祈願でした。組単位で城下の神社へ祈禱を願い出、参籠し、お祓いを受け、神社では神酒を人々に振舞いました。そこここで地蔵祭が行われ、神職・修験者あるいは仏教各宗の僧侶が祈禱のために町々を回りました。神職たちは人形(ひとがた)を挿した疫塚を城下のはずれで焼き払う、いわゆる疫神送りもしています。

一方宮津藩は、当初特に何もしていませんでした。13代将軍徳川家定の死去に伴う鳴物停止令(有力者の葬儀等のために歌舞音曲、普請を禁止すること)が出されていたからでしょう。鳴物停止令が部分的に解除されると、9月17日に城内にあった藩祖を祭る一之御殿で藩中の安全を願う祈禱を執行し、その後台場で西洋流砲術によって大砲を撃っています。コレラを海から来た災厄とみて、それを打ち払おうとしたのです。

翌安政6年(1859)にも再びコレラが流行し、城下では町人が主体となって町のすべてを休みにし、俄か芸や練物、太神楽で昼夜の区別なく大騒ぎをして疫病を退散させようとしていました。どんちゃん騒ぎが災厄に有効だと考えられていたからです。一方宮津藩は、流行した地域へ医者を派遣しますが、大砲の部隊も同行させ、同じように打ち払いをしています。宮津藩(武士階級)もまた、民衆と同じような民俗的な発想をしていたのです。違うとすれば、コレラを開国に伴ってやってきた外来の疫病だと強調していることでしょう。

このように、幕末の社会では神仏に頼り、伝統な慣習にとらわれがちで、環境・衛生など概念はまだまだ希薄です。そもそも感染症に対して、集まって祈願したり、飲食したりするのは逆効果です。明治維新になると、神仏の力に頼るのではなく、西洋的な医療が広く導入され環境・衛生が重要だととらえるようになります。新しい予防法などに抵抗する人も多く、予防や隔離をめぐって暴動も起こったのですが、近代的な考えは少しずつ受け入れられていきました。

参考文献
幡鎌一弘「幕末期における宮津藩の宗教政策」(『日本宗教文化史研究』8-1、2004年)。
宮津市史編さん委員会『宮津市史』下巻(宮津市役所、2004年)。
山本俊一『日本コレラ史』(東京大学出版会、1982年)。
奥武則『感染症と民衆 明治日本のコレラ体験』(平凡社新書、2020年)。


『コレラ予防心得草』(1880年、国立国会図書館蔵)
『コレラ予防心得草』(1880年、国立国会図書館蔵)

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