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 【リレーエッセイ 感染症と人類17】

種痘を広めた医者のネットワーク

幡鎌一弘 教授(文学部歴史文化学科歴史学研究コース:日本史、日本宗教史)

人類が最も長くつきあってきた感染症は天然痘であるといっても、おそらく間違いはないでしょう。しばしば大流行し、死亡率は高く、治ってもあばたが残る恐ろしい病気でした。しかし、1798年にイギリスのエドワード・ジェンナーが発表した牛痘法により予防が進み、1980年にはWHOが天然痘の根絶を宣言しています。天然痘は、人類が克服しえた数少ない感染症です。

ジェンナーの著書は次々と翻訳され、牛痘法は欧米諸国にまたたく間に広まりました。しかし、日本で種痘(牛痘法)が実施されるようになったのは、ジェンナーが牛痘法を開発してから約50年後の嘉永2年(1849)です。同年6月バタビア(現在のインドネシア ジャカルタ)から取り寄せられた牛痘苗(ぎゅうとうびょう、牛から採取された天然痘のワクチン)は、長崎から京都へ、そして大坂の緒方洪庵のもとに届けられました。

嘉永2年11月、緒方洪庵は大坂に除痘館(じょとうかん)を作り、種痘の普及に乗り出します。除痘館が出した「種痘引札(ひきふだ)」(種痘を宣伝するチラシ)には、世界で数億人が種痘を摂取し、中国でも行われていることを記しています。しかし、当初、人に牛痘を接種することに対する抵抗は大きく、種痘をすると牛になるという風聞も流れました。除痘館では、種痘を正しく理解してもらうよう努力を重ね、やがてその効果が認めるにつれて誤解も解け始め、種痘は普及していきました。除痘館は、安政5年(1858)4月には江戸幕府に公認されます。

大坂除痘館が発足したときに出した「種痘引札」には、京・伏見・堺・兵庫・平野・高槻・伊丹・尼崎・大和(5か所)・淡路の14か所の除痘所(分苗所)が記されています。やがて、丹後宮津(京都府)・備後福山(広島県)など、現在の府県でいえば12県、51か所に広がりました。種痘、具体的にはそのもとになる痘苗は蘭方医の努力とそのネットワークによって地方に伝えられていったのです。

私は、奈良県を対象にして研究することが多いのですが、たまたま京都府宮津市・兵庫県加西市の自治体史にもかかわっており、その両方で種痘を扱うことになりました。現在の加西市、当時でいえば播磨国加西郡では、今村甃斎(しゅうさい)・村田良作が分苗所になっていました。今村は、大坂除痘館世話役の原老柳(ろうりゅう)の門人だったので、早くから痘苗を受けられたのでしょう。

大坂除痘館の引札に記された分苗所の先には別の医者がいて、加西では長田元意・徳岡左門という蘭方医が種痘を施し、記録を残しました。そこには、いつ、だれに、だれの痘苗から接種したのかを記し、成功すると赤い丸を付けました(写真)。長田は嘉永5,6年の2年間に134人、徳岡左門・啓哉父子は嘉永6年(1853)から明治2年(1869)の間に456人に施術しました。この中には、地域の有力者、神職・僧侶も含まれていました。

当時の種痘は、種痘を受けた子供からとった痘苗を用いて接種を続けていました。痘苗を提供してくれる子供の確保のために謝礼が必要で、経済力に支えられていなければ継続できませんでした。痘苗が途切れたら、知り合いから譲ってもらって接種を続けました。

世界と結びついたネットワークと地域で医療を支えた医者の熱意とによって、日本でも種痘は広められ、多くの人々の命が救われていったのです。

参考文献
アン・ジャネッタ『種痘伝来:日本の〈開国〉と知の国際ネットワーク』(廣川和花・木曾明子訳、岩波書店、2013年)。
緒方洪庵記念財団除痘館記念資料室編『大坂除痘館の引札と摺りもの』(同所、2018年)。 
加西市史編さん委員会編『加西市史』第2巻本編2近世・近現代(加西市、2011年)。
古西義麿『緒方洪庵と大坂の除痘館』(東方出版、2002年)。
「除痘人名録」(兵庫県加西市所蔵)
「除痘人名録」(兵庫県加西市所蔵)

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