1. HOME
  2. ニュース・トピックス
  3. 《公開講座記録》【外国語への招待】第4回 文献から見る唐朝の日本人
 【生涯学習】

《公開講座記録》【外国語への招待】第4回 文献から見る唐朝の日本人

第4回 ●2021年7月31日(土)13時30分
テーマ ●文献から見る唐朝の日本人 —遣唐留学生をめぐって
          ●講師  竹田 治美 外国語学科 教授

内容

周知のように、唐帝国は強力な王朝として、東西文化が融合した国際色と豊かな文化とともに、周辺地域及び後代の歴史に甚大な影響を与えた。

遣唐使の時代は、日本の歴史の中で特異な時代だといわれ、平安時代の前半までの約200年間にわたって延べ二千人が入唐の経験をもったと記録に残っている。

遣唐留学生はいったい唐でどのような学習をしていたのだろうか。一般的に遣唐使団が港に到着次第、現地の官庁に報告し、官吏はすぐに遣唐使団を専用の官舎に迎え、朝廷の入朝の指示を待つ。入唐(長安に行く)の人数が決まると護衛を派遣する。遣唐使団はおおよそ数百人であるが、長安に入ることができる者はわずか十数人で主に使節、留学僧、留学生である。これらの人は官吏の等級によって食糧と費用が供給され、全ての費用は朝廷から提供する。一方、水夫や雑務の人々は現地で待機することになる。日本からの留学生(僧)の衣食住行は概ね鴻臚寺から提供されるが、自国からも費用を提供される。『入唐求法巡礼行記』にその様子が記載されている。

留学生たちは初めて師匠と対面するときに「贈呈品」の儀式があり、唐の学生と一視同仁に勉強する。しかし、官学の人数には限度があるため、漢語のレベルの低い人は「拒否」される場合もあったという。

遣唐留学生たちの勉強時間と教材は唐の学生と全く同じで、『孝経』『論語』『尚書』『春秋公羊』などを一年間、『周易』『毛詩』『周礼』『礼儀』などを二年間、『礼記』を三年間学ぶ。規定によって、各科目に「旬試験」、「歳試験」がある。「旬試験」後に一日の休みが与えられる。毎年7月に「歳試験」が行われ、一年間のまとめ試験である。また、卒業試験とされる「業成試験」があり、規定の科目をすべて合格する者のみが卒業できる。九年の間に指定科目を終了できず、あるいは連続3年間成績が下位の場合は退学させられる。さらに、道楽、賭博にふける者や、師匠に不遜、年間に百日欠席する者などは強制的に退学させられる。このように遣唐留学生と留学僧は唐の風習と規則・制度に従い、厳しい学習が始まる。

唐朝の最高教育学府は、「国子監」といい、長安と洛陽に設置されていた。長安の「西監」に六学館があり、ここは「国子学」「太学」「四門学」「律学」「書」「算学」を学ぶところである。外国からの使者と学生は主に「太学」で学ぶ。

太学に満学制という規定(8年間)があるが、学生の入学時の基礎レベルが異なるため、柔軟な対応もある。また、太学は学生の社会実践活動も重視した。経典の終了後、博士主催の答弁に参加しなければならない。答弁の問題は五十題あり、多く解釈できた者が「上第」といい、いい経典を引用出来る者は「高説」となされる。

阿倍仲麻呂は「太学」で九経を修了し、科挙試験に合格した。高等文官試験は、進士と明経という二つの科挙試験があったが、阿倍仲麻呂は最も難しいとされた進士科を受験し、見事に合格した。『新唐書』と『旧唐書』に彼の生涯と功績が記載されている。

『唐侍合解笑注』(清光緒五年重校本)に「衡為人誠摯腫朴、博学多才」と記載されている。阿倍仲麻呂は多くの著名人と密接な往来があり、特に王維と「同官相善」兄弟のような関係であったという。当時、詩人の李白、儲光義、包佶、趙驊などの人とも親交が深く、彼が校書官に任命された時に儲光羲から『洛中貽朝校書衡朝即日本人也』と贈られた。

阿倍仲麻呂は蔵書之盛世の時、官秘書監・衛尉卿従三品になる。この官職は現代の国家図書館長にあたるもので、彼は職務と唐の図書事業に全うしたと言えよう。

『旧唐書』にも「朝臣仲麻呂は中国の文化を好んだため日本には帰らず、姓名を朝衡と改め、(玄宗に)仕えて左補闕・儀王友を歴任す」と記される。

しかしながら彼の私生活についてほとんど記録が見当たらないが、「塗山吟」から彼が唐で結婚したことが伺える。また、王維の送別詩序の「必斉之姜、不帰娶於高国(結婚相手は必ずや大国の公主にして、帰って諸侯国の娘を娶らず)」を結婚の証拠と見るが、多くの詩から阿倍仲麻呂は晩年に至るまで日本人としての強烈な意識をもっていたとみられる。そのため、唐で正式の妻を娶らなかったことの説もある。

唐の律令に「諸蕃使人所取得漢婦女為妾者、併不得将還蕃」という規定がある。しかし、現地で唐の女性と通婚し、日本に帰還事例も少なくない。例えば藤原清河は唐の女人と結婚し、66歳の時に娘の喜娘が生まれた。宝亀8年(777年)に小野石根を大使代行とする遣唐使が出発するが、遣唐使が長安に入京した宝亀9年に清河は死去した。同年、喜娘は父の遺志を果たそうとしてこの時の遣唐使に同行した。途中で風難に遭い、石根・趙宝英らは遭難した。喜娘は継人らとともに舳に乗り、肥前国天草郡の西仲嶋(現在の鹿児島県出水郡長島町)に漂流され、ようやく来日を果たしたが、その後の消息は不明である。喜娘が来日するときの遭難の模様は、14次遣唐使大伴継人の上奏に詳しく記載している。

また、2004年10月12日に西北大学がある遣唐使の墓誌を発見したと発表した。その名は井真成であり、日本人留学生として記されていた姓名である。これは考古学的に、中国で発見された最初の日本人の墓誌であり、他国も含めた唐国への留学生の墓誌の唯一の発見例である。現存の石刻資料のなかで日本の国号を「日本」と記述した最古の例である。

日本の遣唐留学生氏名のあるものが102人、留学生26名、僧侶が92名。計画的に勉強し、自分の得意分野を特化し、学業の内容には強い国家意識がみられ、対照的に新羅の学生は貢挙と功名に進める意識が強いと言われている。

遣唐使は現代人が想像できない困難と苦境を乗り越えていた。歴史は繰り返して時代が進歩していく。遣唐使が国際人として活躍した歴史は、グローバル社会に生きる現代人にも通じるだろう。「コロナ禍」における時代の大転換期の今だからこそ、歴史を学ぶことは先人に敬意を表し、自らの誇りを取り戻すことになる。あらゆる時代を想像し、その環境でどのように考え、行動を起こしたのか、自分をそこに置いて考えることが大切であろう。

クラブ・サークル

広報誌『はばたき』

メディア出演・講演情報・教職員の新刊案内

シラバスを見る

情報ライブラリー

学術情報リポジトリ

iCAFé_

附属天理図書館

附属天理参考館

附属おやさと研究所

学校法人天理大学

天理大学の自己点検・評価活動

寄付のご案内

このページの先頭へ

ページ先頭へ