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 【生涯学習】

《公開講座記録》【人間学で読み解く現代社会】第4回 魂とは何か —「場所」としての魂—

第4回
●2022年6月18日(土) 午後1:30
●テーマ:魂とは何か —「場所」としての魂—
●講師  荒川 善廣(宗教学科 教授)

内容

古代ギリシア以来の有力な哲学思想はいずれも、人間は心と身体と魂が一体となってこの世に生きていると考えた。もちろん、これら三者の関係をどのようにとらえるか、とりわけ魂とは何か、ということについてはさまざまな説が唱えられてきたが、カント以前の哲学者に共通して認められることは、魂を思惟的実体としてとらえるという点である。だが、カントの批判哲学によると、魂は実体ではなく、むしろ認識の限界を定め、目標を立てる理念である。しかし、この場合でも、魂に「考える」という思惟の働きが固有のものとして備わっているとする点では、カントも彼以前の哲学者と同類である。

これに対して、新しい魂の概念は、人間の経験を認識に限定しないことによって導かれる。つまり、人間は、認識的であれ、非認識的(情動的)であれ、さまざまな経験をしつつ生きているが、そのつどの身心の経験は多種多様ではあっても、一個の人間としての人格的同一性は保たれている。この人格的同一性は、種々の経験に統一を課すことによってもたらされる。ホワイトヘッドによると、その人格的統一を保証するものこそ、「場所」としての魂にほかならない。もし魂が認識している者のみにあるとするなら、思惟の働きを持たない者には魂はないということになる。しかし何かの事情で認識活動に支障を来している人間も生存しているので、そのような考え方には無理がある。したがって、魂には、認識のみならず、すべての身心の経験に統一を課すという機能が付与されなければならない。以上のことから、魂とは、「人間経験のあらゆる機会を受容しそれ自身の統一へともたらす場所」と定義できる。

ところで、心と身体と魂という三者の関係について、従来の諸説に共通しているのは、身体が容れ物になっていて、そこに心魂が宿っているとする考え方である。この「身体という容れ物に心魂が宿る」とする説の難点は、心と魂を同じ一つのものとみなしていることである。だが、意識であれ無意識であれ、心の働きは身体があるから生ずるのであって、身体が滅びると主体的な心の働きも消滅せざるをえない。すると、心と同じものである魂も消滅せざるをえない。

一方、魂を「場所」とみなすとき、心と身体と魂の関係は、従来の説からの言わばコペルニクス的転回としてとらえられる。すなわち、これら三者の関係は、「魂という場所において身心現象が生起する」と表現できる。この新しい説ではむしろ、魂が容れ物になっていて、そこに身体現象と心理現象が相俟って生じると考える。つまり、この説によると、身体と心がともに現象という点では同類であるが、魂自体はそこで現象が生じる場所であって、現象そのものではない。この説の長所は、現象としての身体が滅ぶと現象としての心も滅びるが、しかし魂は現象ではなく、心とは類的に異なるものなので、永遠不変、不生不滅とみなせることである。

「場所」としての魂は、そこにおいて何らかの現象が生起すれば、この世の存在となるが現象を伴わない純粋の「場所」はこの世のものとは言えない。この場所があたかも限定されたものであるかのような印象を与えるのは、そこで生起する身体的な現象のためである。時空的世界において、一定の形や大きさを伴うのは身体現象である。他方、心の現象は時空を超えており、形や大きさを伴わない。まして魂という場所は現象ですらないので、もともと形や大きさはなく、無限定である。

さらに、魂という場所において身心現象が生起するが、現象的次元での主体性は身体ではなく、心にある。心が主体性を失い、客体的不滅性を獲得した姿が「霊」(みたま)である。霊は、当人によって生きられた過去の経験であり、後続の主体の経験に影響を及ぼす存在になっている。つまり、魂は当人の死後、別個の人格として生まれかわることがあるが、霊は、終息した特定の人格が永続的に影響を及ぼす姿を指している。

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