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 【生涯学習】

《公開講座記録》【地域研究への招待】第4回 古代インドネシアにおける民族移動と諸王国の萌芽 —ボロブドゥール遺跡の成立背景—

第4回
●2022年7月2日(土) 午後1:30 
●テーマ: 古代インドネシアにおける民族移動と諸王国の萌芽 —ボロブドゥール遺跡の成立背景—
●講師  奥島 美夏(地域文化学科 教授)

内容

インドネシア各島は豊かな熱帯雨林や宗教遺跡を抱え、主だったものは世界遺産に登録されている。なかでもジョグジャカルタにはボロブドゥール遺跡および多数のヒンドゥ教・仏教寺院群があり、世界中から観光客を集めているが、誰がいつ建立したのだろうか。本講演では、これらの寺院に加えて東ジャワやバリなどの石像建造物をも創設した古代西ジャワ起源の王族たちについて、古文書や伝承から近年わかってきたことを紹介した。

インドネシアには紀元前からインド・東南アジア大陸部の住民が断続的に渡ってきた。特にインドのアーリア系民族は交易や戦争のたびにスマトラやジャワなどに上陸し、先住民族と結婚して王や首長となることも多かった。また、彼らは交易のために沿岸を整備し、清らかな河川のある丘陵や山地に農地や宗教儀礼場を設け、インドから招いた宗教家たちに子弟を教育させた。インドネシア最初期の王国サラカヌガラや、その後継者たるタルマヌガラ王国はこうして形成された。その子孫はクンダン、ガルー、パジャジャランなど、次第に西ジャワから中・東ジャワに出て増えていった。クンダン王族の子孫は中部ジャワのディエン高原やバリ島にも広がり、アルジュナ遺跡群やブサキ寺院を建てたといわれる。また、タルマヌガラ王の親族はカリマンタン(ボルネオ)島のクタイ王国とも交流を深めたという。

さて、タルマヌガラ王国の第13代王マンディミニャックは兄嫁と不倫し、「穢れた子」センナ(バラタセンナ)が生まれる。センナは地位確立のため異母妹と結婚し、ジョグジャカルタの初期王として知られるサンジャヤを生んだ。このサンジャヤが、自身とその家族、とりわけ孫で同じく従兄の妻と不倫をしたバンガの身を守るため、王族同士の戦いと宗教活動に全精力を傾けることになる。

サンジャヤの息子パナンカランは、すでに通婚関係のあったスマトラ島の王族と結婚し、その子らとともに大乗仏教を学べる仏教寺院をジョグジャカルタのカラサ村に開き、仏像も奉納した(現・カラオサン寺院とサリ寺院)。さらに、パナンカランの孫デウィ・ヤソダラ(ヤショーダラ)もインド・ガンダーラの王族の子孫と結婚、息子サマラトゥンガが生まれた際(古文書によれば紀元832年)に「山のように巨大な仏教寺院」が完成した。これが今日知られるボロブドゥール寺院である。ただし、他の石碑などによれば8世紀からすでに建築は始まっていたという。

一方、当時のジャワ王族の多数はヒンドゥ教諸派を奉じており、一部の王族のこのような活動に脅威を感じた。例えば、デウィ・ヤソダラと同じくパナンカランの孫だったピカタンは、ボロブドゥール寺院の建立に対抗して、大規模なヒンドゥ寺院群(現在のプランバナン遺跡群)を建てた。ピカタンの子孫たちもこぞってヒンドゥ教の寺院や石碑を奉納したといわれる。このヒンドゥ教徒と仏教徒で対立した王族内の権力闘争は、サマラトゥンガの息子バラプトラデワの時代についに戦争にまで発展した。その結果、バラプトラデワ軍は敗けてスマトラへ逃がれ、シュリーヴィジャヤ王国に身を寄せたという。だがジョグジャカルタに残ったヒンドゥ教徒の王族の子孫も、おそらくはその後の干ばつや地震などのためか、多くが東ジャワやバリなどへ移住して寺院群を放置したのである。

こうして西ジャワ起源の王族の勢力争いの一因ともなったボロブドゥール遺跡群は、19世紀にこの地を訪れたジャワ総督代理トーマス・ラッフルズらによって「再発見」される。その後の調査を経て、20世紀初頭にオランダ人技師ファン・エルプが復元工事に着手し、戦後1970年代からは本格的な修復が何度か行われ、1991年にムンドゥッ寺院・パオン寺院とともに世界遺産として登録されたのであった。

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