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 【生涯学習】

《公開講座記録》【「大和学」への招待 ─郡山の歴史と文化2─】第2回 軍事演習と地域社会 —明治41年の郡山—

第2回
●2022年9月17日(土) 午後1:30
●テーマ: 軍事演習と地域社会 —明治41年の郡山—
●講師  黒岩 康博(歴史文化学科 准教授)

内容

明治41年(1908)11月、奈良盆地において陸軍特別大演習が行われた。陸軍特別大演習は、年1回天皇自ら統監し、2個以上の師団(諸兵種の連合した作戦部隊。平時約1万人)その他の部隊を適宜編制して対抗させる、大規模な軍事訓練である。唯一天皇の統監が定例化された軍事演習で、明治25年から昭和11年(1936)まで全国各地(地域的偏りはあり)で行われ、奈良県では昭和7年にも実施されている。その駐屯が周辺地域へ「門前町」の形成を促したり、インフラの整備をもたらしたりする常駐部隊(師団・聯隊など)とは異なり、単発のイベントであった陸軍特別大演習が地域社会へ与えた影響とは、一体どのようなものだったのだろうか。主として奈良県庁文書を用い、郡山町及び生駒郡の演習への対応を見ていこう。

明治41年の大演習は、11月10日天皇が奈良市に行幸し、翌11日から南軍(第4・11師団ほか)と北軍(第9・16師団ほか)に分かれて開始。天皇は耳成山・帯解村・河合村と場所を変えて演習を統裁し、14日に奈良停車場~郡山の街道で閲兵式を行って、翌日奈良を去っている。生駒郡役所役人が残した『特別大演習ニ関スル日誌』を見ると、こうしたスケジュールで計画を実施するためには、さまざまな問題があった。最大の課題が稲の早苅である。役人たちは、11月5日から毎日郡内各所で例年より早い苅り入れの説得に当たったが、面従腹背の農民たちはなかなか動こうとせず、最終的に苅取率5割以下の村も間々あった。また損害賠償(そのうちのいくらかは認められた)や補助を主張する声もあり、果ては小作争議を誘発する危険性まで出来した。

軍が必要とするモノやサービスの提供にも、彼らは力を尽くした。1つは軍馬の糧秣・厩舎である。大量の大麦や藁などが郡内の集積所に集められたが、役人はそれらを俵装し直しており、400もの厩舎を郡山小学校・中学校に新設しなければならなかった。もう1つは宿舎である。北軍の指揮官であった伏見宮貞愛は郡山町の天理教教会、将校は旅館に泊まり、旅団本部は「大字池ノ内氏神社」で露営したが、歩兵や騎兵の聯隊本部は松本源羽知(平端村)など地域の名望家の自宅に置かれた。さらに、同時期に催された陸軍大学校野外演習の学生、大演習を見学する市岡中学校(大阪府)生徒の受け入れもあり、郡内の糧秣・宿舎は払底した。

その他にも国旗を掲出しての沿道奉迎、伝染病患者の隔離など、郡役人が注意すべき事項は存在したが、陸軍特別大演習が天皇の統監する演習であったが故に、天皇の権威とからめて郡の「資源」を選定・顕彰する機会も得ることとなった。1つは献上品である。11月7日、天覧に供する梨が本多村(のち平端村)から郡役所に送られ、11日に高山村名産の茶筌とあわせて献上された。もう1つが名所である。演習半年前の県からの指示では、写真に収めて天覧に供すべき生駒郡の「風景地」は、龍田(紅葉)・信貴山・生駒山・法隆寺とされていたが、郡では平城宮址など27ヶ所に標木を建設し、独自に顕彰を行おうとした。

以上のように、陸軍特別大演習により、生駒郡及び郡山町に多大な負荷が掛かったことは間違いない。翌明治42年奈良市に誕生した歩兵第53聯隊(のち第38聯隊)のような常駐部隊の設置とは違い、一過性のイベントであったことにより、インフラ整備など形に残るメリットはほぼもたらされなかった。天皇権威に浴することを目論む献上品・名所の選定以外、例えば稲の早苅のような場面では、住民たちが損得勘定で動いたのも不思議なことではなかった。天皇や将兵たちは演習が終わるとこの地を離れるが、残って小作争議の火種が蒔かれたかも知れない土地を治めなければならない地域の首長たちは、どのような気持ちで隊列を見送ったのであろうか。

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